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歴史をたずねる

寺の始まり

〇行基菩薩による寺の開創(奈良時代)

奈良時代 養老元年(西暦717年) 奈良時代の高僧 行基菩薩がこの地を訪れ、一刀三礼にて、ご本尊十一面観世音菩薩を彫刻、安置されたのが寺の始まりと伝えられています。当時のお寺の名前は、「観世音寺」あるいは「無量寿院」といわれていたそうです。

〇承和年中(平安時代)慈覚大師円仁和尚による再興

承和元年(834年)に当山の堂宇伽藍は、ことごとく焼失しましたが、ご本尊は、火災をのがれられました。このご本尊のご霊徳を尊信し、遠近より参拝者が絶えず、笠を脱がないと通れなかったので笠脱観音と呼ばれておりました。
承和14年(847年) 比叡山第三世慈覚大師円仁和尚 唐より帰朝の途中で、名刹の炎上を嘆いてお寺を再興して、寺号を「大興善寺」と改めました。
 大興善寺の寺号は、大師の留学中(唐の長安 現在の西安市) 元政阿闍梨より教えを受けられた中国仏教の中心的寺院「大興善寺」から命名されました。
 当山が天台宗にて、延暦寺末寺になるのは、慈覚大師に由来しております。
(写真は、青沼茜雲画伯が揮毫された慈覚大師お姿)
村内には、慈覚大師円仁を祀った古い祠があり、この地で大興善寺を再興されたことを物語っています。 慈覚大師のご命日には、村の人が供養を行っており、慈覚大師円仁和尚の遺徳を偲んでおります。 
左写真の祠は、(高さ130 幅68 奥行 58cm)で、銘文「慈覚大師」
右写真は、小松山大興善寺誌(昭和5年発行)より

〇南北朝時代

 鎌倉時代の末期より南北朝期の動乱の禍にあって、当山も渦中に包まれ、寺領300余町の敷地も奪われ、堂舎も破却され、資財も盗まれ、一時期、御子谷に小堂を構えて避難しましたが、ご本尊は、常に安泰であったそうです。
 のち天文11年(1542年)勝尾城主筑紫惟門によって再建されました

〇 江戸時代

筑紫惟門の再興後、80数年を経て、元和10年(1624年)宗対馬守平朝臣義成公の時に至り、現在の本堂は再興されました。
対馬藩主宗義成公が大檀那になられたのは、江戸時代初頭より、「田代領」(現在の佐賀県三養基郡基山町・鳥栖市の一部)の2000石は対馬藩の飛び地でもあったことによります。(園部村は一時天領の時代がありました。)
 それから現在に至り、本堂は約400年がたち、古刹の姿を現在に伝えております。

〇豪潮律師の活躍

江戸時代後期、1800年頃 当時の名僧豪潮律師 当山に錫をとどめ、当山住職慈厳法印とともに、寺門の護持・人々の救済につとめられました。豪潮律師は、持律堅固の上に修力に富み、光格天皇の勅命を拝して京洛の地に法験を示し、細川候の帰依をうけて郷里熊本の地に法力と強化を施した高僧です。
享和2年(1802年)には、「豪潮律師」が宝篋印塔を八万四千基 建立すると発願され、最初の塔(上写真)が大興善寺より建立が始められました。豪潮律師の八万四千最初の塔と呼ばれ、大興善寺契園入口にあります。以降、師の偉業として、全国各地に幾千もの塔が建立されることになります。
 この塔の造立の理由としては、「天下泰平、国家安全、風雨順時、日月清明、五穀成就 一切衆生 皆帰正法 二世安楽」と述べられています。
 なお、名古屋の萬松寺内に造立された塔の銘に、二千余造立されたことが彫られています。
 豪潮律師も当山において、多くの方に加持祈祷の霊験をしめされました。

明治時代~

〇玉岡誓恩和尚

明治時代を迎えた大興善寺は、廃仏毀釈により無住の時代を迎えました。
当山も僧堂荒廃し、寺領退転し、法灯絶えようとしたとき、1869年(明治2年)、島原和光院より玉岡誓恩師19歳(数え年)が大興善寺の法灯を継ぎました。若き僧侶が寺の再建に望んでいきます。
玉岡誓恩和尚は、持戒堅固にして、多くの方に信仰を集め、127段の石坂改修、宗家御霊堂の安置等、中興の偉業をなされました。
 
(石坂改修について)
 改修前の石坂は自然岩でできており、段差もまばら。子供や老人が寺の境内に参るのは難儀であったそうです。そして西暦1894年(明治27年)。「石段」が完成します。この石坂によって、大変楽にお寺への参拝ができるようになりました。

〇花の寺つつじ寺へ

玉岡和尚なきあと、大興善寺を継がれたのは、玉岡和尚最後の弟子である神原玄祐師です。大正9年玄祐師当山に住し、古刹の大衆化をはかり、美的観念を養成し、現前の浄土を建設するようつとめられました。
 師は裏山の雑木林を開拓して公園とし、檀信徒と力を合わせてつつじを植え、人々に美しい花で心の安らぎを与え、ご本尊十一面観世音菩薩さまとのご縁を多くの人と結ぼうと努力しました。
 その結果、7万5千㎡、つつじ5万本のつつじ園(契園)が完成して「つつじ寺」となりました。
 昭和55年に法灯を継いだ神原玄應師は、参道石畳の整備、薬師堂・鐘楼を再建等、寺域の整備につとめ、寺の美観を高めました。
 また、4月5月の春のつつじのシーズンとあわせて、秋には紅葉の名所として参拝者が増え、契園内に日本庭園を造り、新しい時代にあわせた活動を行いました。
 大興善寺は、今後も時代が変化していく中で、変わらない自然の四季の美しさと、神様・仏様への信仰を守ってまいります。
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