福岡・佐賀県境の古刹。山の自然が織りなす観光名所。愛称「つつじ寺」
天台宗別格本山 大興善寺

100年前(花寺への布石)

近代大興善寺の礎を築かれた玉岡誓音住職がご遷化し、以降の大興善寺は10年ばかり専任住職不在となります。

その間に年号も、明治から大正へと移り変わることになりました。

広目天・多聞天像が旧国宝に

西暦1913年(大正2年)には、大興善寺に安置されているご仏像の「広目天」「多聞天」が、当時の国宝に認定(国指定重要文化財に1950年改定)されました。

久々の大興善寺にまつわる吉報が、周辺に響くことになります。

弟子の神原玄祐師が専任住職に

それから7年後の西暦1920年(大正9年)、神原玄祐師が大興善寺に住職として戻ってくることになりました。かつて玉岡住職の弟子(最後の弟子)として大興善寺で修行を積まれたご縁もあり、住処となる庫裏が当時の檀家や近隣住民により整備されるなど、玄祐師は歓待される形で迎え入れられます。

神原玄祐師の生い立ち

佐賀県神崎「仁比山地蔵院」ご住職の次男として西暦1894年(明治27年)に生まれ、幼少の頃、同じ神崎「金乗院」ご住職の養子となり、姓を神原に改めます。

1910年(明治43年)、京都東山栗田口「青蓮院」にて得度し、同年大興善寺へ修行にまいりました。当時の神原玄祐師は15歳から16歳。玉岡誓恩住職から指導を受けるも、住職が翌年に御遷化されたこともあり、寺を去ることになりました。

それから10年ほど経ち、玄祐師は仏僧として成長した姿を見せるとともに、大興善寺に大きく運命を変えるご縁をもたらすことになります。

それは「花」にまつわるご縁でした。

池坊専威師とのご縁・大興善寺とのご縁から

若かりし頃の池坊専威宗匠と神原玄侑師

玉岡住職御遷化の後、神原玄祐師は大興善寺を離れ、滋賀の比叡山中学へと進学することになりました。そこで親交を深められた存在が、同中学に通われていた華道家元「池坊専威宗匠」(写真左。写真右は神原玄祐師)です。

このご縁から、玄祐師も花の世界に魅せられてまいります。そして大興善寺住職に就いた後も交友関係は続くことになりました。

当時の大興善寺といえば、石段のつつじが花咲く春の風物詩。

池坊師は、大興善寺の春を彩るつつじの花々を活かす構想を(神原住職に)伝えられ、住職がそれを温め、実現に努めることになりました。

当時、大興善寺裏山(契山南麓)の多くは松林。その山地を改良しながら、つつじを植栽し花園を設けるに至ります。

裏山に「つつじ園」開園

つつじ園の始まりともなった八万四千塔最初の塔

つつじの花園づくりは、江戸時代の名僧「豪潮律師」が大興善寺に建立した「八万四千塔最初の塔」の地点(上写真)から始められました。

規模の大きい事業でありましたので、周辺のご協力をいただきながら、1923年(大正12年)に「つつじ園」(現在の大興善寺契園)の開園にこぎ着けることになりました。

丘一面に咲き誇るつつじの花々は、(現在と比べますと)小規模でしたが、当時参拝に訪れた方々を魅了します。

年を重ねるとともに改良が進められる中、交通手段は限られていたにも関わらず、噂を聞きつけ物見遊山でお越しになる方も少なくありませんでした。

つつじ園に咲く花の評判が高まっていく中、時代は大正から昭和に移り変わります。

昭和時代初期といえば、世の中が大東亜戦争(日中戦争・太平洋戦争)に傾いた時代。戦時一色に染まりゆく中、人々は物見遊山や花見を楽しむどころではなくなってまいります。

その結果、大戦中、大興善寺での花園づくりは頓挫することになりました。

銃後と大興善寺

上の写真は、日露戦争における天下分け目の合戦とも例えられた「奉天会戦」の合戦図。

日露戦争後、大興善寺併設の熊野神社に奉納されたものです。

日清戦争におきまして、大興善寺にて出征に先立ち戦勝祈願を行ったという記録が残されております。それ以降、地元の若者が出征の折には、熊野神社で出征式・大興善寺で必勝祈願を行うのが習わしとなりました。

こちらの絵。無事戦地から帰還された方が、お礼参りに訪れた際、奉納されたものと思われます。

鐘の供出

日本が大戦へと突き進む中、寺社も銃後(戦争の後方支援)に傾くことになります。

各地の寺院では、銃後活動の最たるものとして「釣り鐘」の供出が行われ、大興善寺も例外ではありませんでした。

福岡県博多の「崇福寺」が江戸時代に太宰府に設けていた鐘楼の釣り鐘(写真は梵鐘の銘文を書き写したものの一部)。この鐘は、明治時代に大興善寺が譲り受けたものですが、大戦のため鉄鋼資材として供出の運びとなり、花などで飾られ、荷馬車に積まれて寺を去ることになります。

終戦へ

戦局が悪化・困難化していく大戦末期の1945年(昭和20年)夏。

木材確保の任務で、大興善寺には陸軍兵士が駐在するようになりました。

つつじ園周辺の木々が伐採されていくことになりますが、それからしばらくせずに終戦を迎えます。

つつじの寺へ

離れ山里の寺院であったため、大戦中に爆撃や銃撃を受けることはなかったものの、当時の資材供出による喪失は大きいものとなりました。

大興善寺の山号は「小松山」。この名が示すように、古くから寺の周りには松が群生しており、寺を象徴する植物でした。

大戦当時は、つつじ園にも立派な松林があり、それらの木々に傷を刻み入れ、樹脂を採取し、松根油の原料として軍に供出しておりました。

それが遠因となり、戦後しばらくして松が枯れるに至ります。

戦後の大興善寺では、銃後の爪あと残された松林が消えゆくいっぽう、つつじの花が象徴となってまいります。