福岡・佐賀県境の古刹。山の自然が織りなす観光名所。愛称「つつじ寺」
天台宗別格本山 大興善寺

70年前(花寺「つつじ寺」へ)

大興善寺現住職の神原玄應です。ここからは、私も接した戦後の大興善寺をたどってまいりましょう。

上の写真は60年ほど前、1957年(昭和32年)5月初旬の石段風景です。現代のように地球温暖化が進んでおらず、花が咲くのは遅かったものと記憶しております。

当時の大興善寺は、行楽地としての賑わいを見せ、観光の寺院へと転じていく渦中でもありました。

この時代より、さらに10年ほど遡って話を進めてまいります。

神原住職(先代)の思い

戦後まもない1940年代後半(昭和20年代前半)。

食料・物資不足で困窮した時代。大興善寺にお参りに来られる方も「花より団子」といった状況。おもてなしの際に出されるお食事は、何よりもお目当てであったようです。

寺としても花にかまっていられませんでした。戦中から引き続き戦後も数年ほど、花園づくりは足踏みとなります。

池坊専威師ご遷化

神原玄祐住職(以降、先代)が「花の師」として慕われていた池坊専威宗匠が、1946年(昭和21年)にお亡くなりになりました。

日本が大戦へと突き進んだ昭和初期以来、池坊専威師との関係は、いくぶん疎遠になられたようです。

当時の「つつじ園」(現在の大興善寺契園)は、戦争に遮られたとはいえ、若き日に語り合われた「つつじの花の理想郷」実現にほど遠い有様。

大戦も終わり「さあ、これから」という時に、池坊師ご遷化。先代は花の道半ばで、大きな指標を失うことになりました。

戦後と向き合う中で

大本営発表ではない戦争の状況は、戦後に入り伝えられ始めます。

先代が先の大戦の実情を知られたのも、この頃ではなかったでしょうか。

当時は、戦地から遺骨で帰還された方を(先代が)基山駅まで出迎えに行くことが少なくありませんでしたし、「無事に帰ってまいりました」ということで、大興善寺にお礼参りされる方も結構おられました。

上の写真は、大興善寺境内にあります「幸福の鐘」。1947年(昭和22年)4月建立の梵鐘です。

敗戦によって失望ただよう当時の世相に対し、力を合わせ元気に立ち上がろうという勇気づけとともに、戦時中供出した鐘の代わりとして設けられました。

大勢の方が、貧しい事情にもかかわらず浄財を寄せられ、大戦でお亡くなりになった方への思いが込められた鐘でもありました。こちらの銘には「民主建設」という文字が刻まれており、当時の希望を表しております。

平和の鐘の音が日常に溶け込むとともに、大興善寺も平穏を取り戻してまいります。

賜った文言とともに再出発

先代が生涯に渡り大切にされた文言がありました。大興善寺住職に就かれて間もない頃、池坊専威宗匠から頂いた「はなむけの言葉」です。

「人生は美に向って猛進せよ。そしてその行動は、いか程に厚かましくてもよい。その苦難の中にも美を忘れるな」 – 神原玄祐著「神原玄祐回顧録」(p.320)より

この文言は、先代の生き様を表した至言でもあります。

晩年、京都「大原三千院」ご門主になられた後も、(三千院に)「あじさい苑」を造成するなど、終生「花の美」を追い求めることになりました。

先代は、戦後の苦難の中から「花の美」を追い求めてまいります。

1950年(昭和25年)に入り「つつじ園」の開発が再開。以来、理想の花園づくりへ猪突猛進でした。

田舎の寺では、とんでもない事でありましたが、皆の不安を押し切って「花園づくり」が急ピッチで進んでいくことになります。

まさに「その行動は、いかほどにも厚かましい」具合でした。

花寺「つつじ寺」・現世の浄土「つつじ園」へ

昭和32年の大興善寺つつじ園風景

つつじ園再開まもなくの1951年(昭和26年)花咲く5月。

進駐軍から払い下げたトラックがバス代わり。砂煙をもうもうと上げながら(舗装されていない道路を走り)、人々を乗せて基山駅から大興善寺へピストン輸送。花見の後は、大興善寺から基山駅へピストン輸送。それが再開当初のお花見行脚でした。

1952年(昭和27年)から、進駐軍のトラックに代わり、「西鉄バス」が基山駅と大興善寺間で運行し始め、寺へのお花見が便利になります。

上写真は、1957年(昭和32年)の「つつじ園」。現在とは趣が大きく異なりますが、桜の花見のように、人々が家族・親族・同僚連れで、思い思いに宴を楽しんでいた模様です。

当時、自動車(自家用車)は大変珍しい部類でしたので、ここにいるほとんどの方は、徒歩かバスでお越しになったものと思われます。

SL(蒸気機関車)に乗って基山駅へ。基山駅から西鉄バス(か徒歩)で大興善寺へ。というのが昭和30年代までの大興善寺お花見行脚の定番であったようです。

うつし世に浄土ありけりつつじ寺

1957年(昭和32年)、「つつじ寺」の石碑(上写真)が建立されることになりました。

碑文として「うつし世に浄土ありけりつつじ寺」が刻まれております。

こちらの句は、満州(現中国東北部)引き揚げ後、「久留米ロータリークラブ」を立ち上げられた「武田胤雄(たねお)」氏から授かったものです。

当時より大興善寺では、つつじの花の浄土を目指して作業が進められていたことが伺える句です。

武田氏は「つつじ寺」の名付け親としても知られており、先代とは1950年代初頭(昭和20年代後半)からの知り合いでした。

このように地元のみならず、武田氏をはじめとした知名士の方々にご賛同をいただきながら、山は開拓され、より大きく充実した花園「つつじ園」(現在の大興善寺契園)へと発展してまいります。

交通手段の確保

大興善寺は、わずかな檀家しかもたない田舎の小寺。先代は、そのような寺におよび就かない大花園「つつじ園」を造られるばかりか、離れ山里までの観光行脚に欠かせない交通手段も導かれます。

先述の進駐軍トラックから始まり、現在も続いております基山駅からの(臨時)西鉄バス。西鉄バスは、かつて西鉄小郡駅からも走っておりました。

こうした交通手段を率先して手配されたのも先代。花への思いは、人と花を結ぶためにも注がれることになりました。

それは自動車の時代に入っても同様です。

自動車社会の到来

大興善寺南側の山を切り崩して作られた大駐車場

高度経済成長時代の到来とともに、庶民も自家用車を持つ時代になりました。観光・参拝に限らず大興善寺へお越しになる方も、交通手段は、列車・バス・歩行から車中心となってまいります。

1970年代前半(昭和40年代)まで寺周辺に十分な駐車場が確保できず、つつじの季節には大渋滞を招いておりました。当時はそれも風物詩のようなものでしたが、お越しいただいた方の不評を買うことになり、大興善寺そして周辺にとりましても深刻な問題でありました。

山地ばかりの大興善寺界隈。渋滞を緩和する駐車場に適した土地は皆無でした。先代は意を決して、寺の南にある山を買い取ります。

1974年(昭和49年)、その山を切り崩し、広大な駐車場を設けることになりました。それが現在の大駐車場(上写真)となります。

駐車場開設によって大幅に渋滞緩和されましたが、数年後には、さらに車も人も増え、再び渋滞に悩まされることになりました(1995年に隣接の田畑を買い入れ、以降、第2駐車場を設け対応することになります。)。

当時の大興善寺といえば、つつじ一色といえるもの。75000平方メートルまでスケールアップされた山地には、戦後とは比べものにならない5万本(5万株)のつつじが咲き誇り、つつじ山のごとき景観を成すに至りました。

つつじの花の理想郷へ

一目一万本

1970年代に入り、先代が心に描かれていた「つつじの花の理想郷」が現実のものとなりつつありました。

1970年代中盤(昭和50年前後)には、名実ともに、花寺「つつじ寺」・現世の浄土「つつじ園」と化し、九州を代表する花の寺として、全国的に注目されるようになりました。

現在の大興善寺(契園)の春景色は、つつじと新緑が入り交じる風光明媚な独特の世界を生み出すなど、当時とは異なる魅力を放っております。

ですが、その面影を残すつつじの花名所も存在します。

先代がこの寺に築かれた花園の集大成「一目一万本」(上写真)がそれに当たります。

1974年に完成した一目一万本は、その名のごとく、一目で一万本(数字は例えを表し「数え切れないほどたくさん」を意味しております)のような花々をパノラマ的に堪能いただける場所です。

花模様を織り成すその景色は、時代は変われど、癒やし、和ませ、朗らかな表情を人々に与えております。

天台宗別格本山へ

ゴールデンウィーク中の天台宗別格本山大興善寺石段

1978年(昭和53年)4月。慈覚大師再興という由緒をもちまして特別寺となり、「天台宗別格本山」と称することを許されました。

この称号は大変名誉でありますが、現在も一般に定着しておりますのは、花咲く春の「つつじ寺」。

戦後からの大興善寺は、先代を筆頭に、お越しいただいた参拝客・観光客に至るまで、つつじの花に魅せられた方々に依るところが大きいものでした。

寺の歴史を振り返りますと、革新と伝統の繰り返し。つつじ寺も先代の頃は、革新的なものでありましたが、今ではすっかり伝統・風習的なものとして広く受け入れられております。

先代の偉業かつ人々に愛される様式美を護持するのは、並大抵なことではありませんが、私どもも伝統として受け入れ、これからも大切に守ってまいりたい所存です。

第97世大興善寺住職 神原玄應