福岡・佐賀県境の古刹。山の自然が織りなす観光名所。愛称「つつじ寺」
天台宗別格本山 大興善寺

500年前(中世を経て焼失・再興へ)

日本におきまして、仏教寺院が大きな力を得ていた時期。それは中世(平安時代末期から室町時代末期。約900年から500年くらい前)といわれています。

信仰の場のみならず、文化・教養・芸術・芸能などの発信・交流基地。とりわけ本山や大寺院では、治外法権の独立国家的様相を呈していました。

軍事力(兵力)も備えている一大勢力。現代における仏教寺院の印象とは、かけ離れた存在でもあったようです。

中世の大興善寺

大興善寺にも中世に由緒をもつご仏像数体。ならびに平重盛公の供養塔が現存します。

これらを拝観し、当時の面影に思いを馳せられなくもありませんが、実際のところ、中世の大興善寺はどのような仏教寺院であったのか定かではありません。

中世以降、16世紀の戦国時代には焼き討ちに遭い、建造物(仏堂・仏塔)・書物・仏具・仏像など、それまでの寺の歴史を物語る多くの存在が焼失。当時の痕跡がほとんど残されていないからです。

逆説的ですが、焼き討ちに見舞われるほどの寺院。それも3回は襲われた様子ですので、それらの戦火を耐え忍ぶほどには、堅牢な寺院であったのかもしれません。

南北朝時代には南朝方の寺院

制多迦童子の石碑

現在、大興善寺本堂そばに移設されております「制多迦童子(せいたかどうし)の石彫像板碑」(上写真)。

かつては寺東麓の「清水一の宮」にありました。西暦1355年(南北朝時代正平10年)建立とされる石彫像。正平という南朝の年号が使われているため、当時この一帯が南朝方であった証とされております。

寺が祀っていた十五童子のひとつであり、このような彫像が周辺地域に点在していたということですから、中世におきましては、大興善寺の寺領が大きかったものと考えられます。

筑紫惟門氏による再興

西暦1534年(戦国時代天文3年)、大内(大内義隆)氏が筑紫氏城主の勝尾城(佐賀県鳥栖市に存在した山城)に攻め入る際、寺領に踏み入り寺を焼き討ち、陣地確保した話など、戦国時代の焼き討ち関連では諸説が伝えられております。

いずれにおいても、戦災に見舞われ、焼失の憂き目に苛まれました大興善寺。

災禍の中、ご本尊は当時の民によって持ち出され、山あいに隠されたため難を逃れたといいます。

ご本尊が無事であったことは、寺の再建に繋がり、火災除けの霊験あらたかな観音さまとして、より崇められることにもなりました。

大興善寺再建

戦国時代当時、この地域を治めていたのは筑紫氏。

寺伝いわく、戦災で多くを焼失するに至った大興善寺は、西暦1542年(天文11年)に筑紫惟門氏によって再建されたことになっております。

戦国時代・安土桃山時代といえば、焼き討ちや刀狩りに代表されるように、全国の寺社勢力が大きく削がれる時代でもありました。大興善寺も再建後は、形や取り巻きを変えながらも存続していったものと考えられます。