福岡・佐賀県境の古刹。山の自然が織りなす観光名所。愛称「つつじ寺」
天台宗別格本山 大興善寺

150年前(廃仏毀釈からの再興)

廃仏毀釈と大興善寺

今から150年ほど昔の明治時代初頭。日本の仏教寺院にとりましては経験したことのない受難の時期を迎えます。

当時の「廃仏毀釈」「神仏分離令」により寺院を取り巻く環境が大きく変わりました。

このうち「廃仏毀釈」とは仏教弾圧を指します。当時その影響で廃寺を余儀なくされたところも少なくありませんでした。九州におきましては、旧薩摩藩がらみの鹿児島や宮崎が特に激しかったといわれております。

とりわけ鹿児島は、県内の全仏教寺院が廃寺。仏教文化が一掃される状況でした。

廃仏毀釈に至った経緯

江戸時代の寺請制度によって民衆は徹底的に管理され、その制度が不満の温床ともなっておりました。尊皇攘夷の機運が高まり明治維新が成し遂げられる中、積年のうっぷんが廃仏毀釈として表面化したものとも考えられております。

大興善寺への影響

旧対馬府中藩の田代領(現在の佐賀県三養基郡基山町・鳥栖市の一部)。他地域ほど廃仏毀釈に至らなかったといわれております。当時は厳禁にもかかわらず、仏教の民間信仰が浸透していたりと、領内はもとより仏教が根強い風土であったのかもしれません。

しかし明治時代を迎えたばかりの大興善寺は、ほぼ廃寺の有様だったといいます。

そんな荒んだ寺院を立て直すべく駆けつけたのは、久留米の「御井寺」におられた「玉岡誓恩」師。

西暦1869年(明治2年)、数え年19歳(実年齢では17か18歳)の若き僧侶が大興善寺住職となり、寺の再建に奔走していくことになります。

神仏分離と大興善寺

神仏習合の面影

西暦1868年(明治元年)公布の「神仏分離令」。このお達しから廃仏毀釈が始まった説が一般的です。

明治維新以前、寺社は神仏習合ということで神様・仏様を一緒に祀っておりました。その後、神様は神社。仏様は寺。と分けて祀られる形に変わります。

当時まで主たる寺社は一体でありましたが、神仏分離令以降、神社として存続したところでは、寺院施設とともに仏堂・仏像・仏具などの仏教要素は処分の対象となり、仏僧は神職への転向か還俗するに至ったといいます。

大興善寺に関しましては、徹底して神仏分離というわけではなかったようです。徳川家康公を祀った「小松宮」の痕跡は現代では確認できませんが、寺の境内には地元の氏神さま(一説には木花開耶姫)を祀る「熊野神社」が併設など、神仏習合の名残(上写真)が現存しております。

太宰府天満宮のご仏像が祀られることに

仏教の大寺院でもあった「太宰府安楽寺天満宮」(現在の太宰府天満宮)。神仏分離令を受け、安楽寺は廃寺。西暦1871年(明治4年)には天満宮が「太宰府神社」として存続することになりました。

安楽寺廃寺とともに、天満宮ゆかりの仏像・仏具も行き場をなくします。その多くは、田代(現在の鳥栖市田代)の「天本茂左衛門」氏を介し、太宰府近郊の寺院が譲り受けることになり、その中には大興善寺も含まれていました。

西暦1869年(明治2年)には、十一面観世音菩薩座像を始め、天満宮由来のご仏像一式が寺に迎え入れられることになります。

大興善寺が譲り受けたご仏像の中には、天台大師像や伝教大師像もありました。「十一面観世音菩薩座像」「毘沙門天立像」「不動明王立像」からなる三位一体像(上写真)も、天台の影響をうかがえる配置。かつての太宰府安楽寺天満宮が天台宗派の寺院でもあったことが忍ばれます。

神仏分離がなければ、大興善寺に安置されることはなかったご仏像です。

こうして新たにご仏像を迎え、新たな住職を得た大興善寺は、再建への一歩を踏み出します。

玉岡誓恩住職による大興善寺再建

若かりし頃の玉岡誓音住職(写真左)

玉岡誓恩師(写真左)は、現在の長崎県諫早市出身。代々医業を営む家の末弟として生まれ育ち、島原「和光院」に預けられ仏門に入ることになります。以後、久留米「御井寺」にて修行を重ね、大興善寺の住職となりました。

明治時代の幕開けとともに、幾多の仏教寺院が退廃していく中、玉岡住職は旧来の仏僧のあり方を守り続け、周辺住民に協力するなど信頼を得ながら、生涯にわたり大興善寺の再建に尽力することになります。

玉岡住職を語る際、地元の名士「野田昌隆」「鹿毛良鼎」両氏も忘れてはならない存在です。

野田昌隆氏は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて私塾を開き、若者に教養を授けるなど、数々の優秀な人材を輩出した名士として地元では知られています。若かりし玉岡住職は、野田氏に教えを請い、後に自身も教壇に立たれることもありました。

鹿毛良鼎氏は、地元で医業を営む鹿毛家の12代目(現在の京都大学医学部を卒業し医師になられた後、県議会議員も務められました)。玉岡住職に野田氏を紹介したのも当時少年であった鹿毛氏といわれています。大興善寺の檀家でもあり、玉岡住職と境遇が似ていることもあってか互いに支え合う莫逆の友として親交を深めました。

このお2人に大きくご支援いただく中、再興を担う住職という重責を果たしてまいります。

宗家御霊堂の移設

かつて対馬府中藩田代領内で最高の寺格とされた天台宗「昌元寺」。

宗家御霊堂」は、代々の対馬藩主・宗家(のご位牌)が祀られているお堂であり、対馬藩が田代領を治めて以降、昌元寺にて管理されておりました。

それが明治時代初期、宗家のご希望で御霊堂が大興善寺へ移設されることになります。

当時の宗家としましては、ご位牌が収まる場所に安寧を求められていたのではないでしょうか。鎌倉時代より宗家が治めていた対馬は、明治時代に入るやいなや、対馬藩→厳原藩→厳原県→伊万里県→佐賀県(さらに三潴県→長崎県)と立ち位置が定まらぬ状況でもありました。

大興善寺は、山里にたたずむ天台宗の古刹。そして玉岡住職は、妻帯・肉食などをしない昔ながらの厳格さを保たれるなど「理想の青年僧」として地元住民にも慕われていました。かつての名君「宗義成」公が寄進なさった本堂を持つ寺院でもあり、その若き住職が再興のため、懸命に動かれていた。

そのような評判を(宗家側が)耳にされたのかもしれません。

宗家が御霊堂の移設を申し出た際、玉岡住職はそれを快諾したといいます。

西暦1873年(明治6年)から移設が始まり、完成したのは西暦1885年(明治18年)。

大興善寺に宗家御霊堂が設けられたことは、再興への大きな足がかりとなります。

田代を治めた宗家が祀られている寺院ということで、参拝にお越しになる方も多くなり、同時に玉岡住職の地元での評判も広まる形となりました。

石段の改修

明治時代中頃、玉岡誓恩師が大興善寺住職に就いて20年あまり。町村制により村が合併し、寺一帯も「基山村」(現在の基山町)に属することになりました。

その基山村でも一目置かれる存在となりました玉岡住職。

仏行に勤しむ中、地元の農作業を手伝い、子供たちへの指導にも熱心にあたられるなど、長年の草の根活動を通して信頼と評判を得ることになります。住職への相談も兼ねて、足繁くお寺に詣でる方も少なくありませんでした。

ちょうどその頃「境内の大改修」が計画されます。寺への登り坂「石坂」の改修が大きな目的でした。

改修前の石坂は自然岩でできており、段差もまばら。子供や老人が寺の境内に参るのは難儀であったそうです。寺(境内)へとつながる石坂は、仏の世界と人の世界の結び目。そのようなこともあり、立て直すことは住職の悲願でもありました。

そして西暦1894年(明治27年)。「石段」(上写真)が完成します。

石段は、上り下りしやすく寺参りを楽にしてくれたと評判で、訪れた方の中には、寺や住職への感謝の意として、つつじを石段の脇に植えられたそうです。それが次第に両脇を埋め尽くす規模に至り、花咲く5月の大興善寺風物詩として定着していきました。

このエピソードは「つつじ寺」の原点としても語られております。

この時代に改修された石段と境内は、現代に至るまで維持されるなど、後世の大興善寺を支える盤石となりました。

下の写真は、石段(石坂)完成を記念して立てられた記念碑です。玉岡住職を始め、協力いただいた地元の方々の名前が彫られており、ご支援で完成に至ったことがうかがえます。

石坂改修記念碑

後継が育たず

周囲の方々や玉岡住職のお力添えで、再興を成し遂げた大興善寺。

明治時代後期に入り、寺を次世代に託すため、玉岡住職は後継を育てることに全力を注ぎます。

しかし自身が昔ながらの仏僧であり、その指導の厳しさもあってか、後継が育つに至りませんでした。当時のお弟子さんにとりましては、住職の人徳・評判の高さがかえって重圧であったのかもしれません。

そうして次代の住職を望めぬまま、玉岡誓恩師は西暦1911年(明治44年)にお亡くなり(御遷化)になりました。

以降10年あまり、大興善寺は専任住職不在の時代を過ごすことになります。