寺伝をもとに歴史を振り返ります。
平安時代初期に焼失
1200年ほど昔、平安時代初期の大興善寺は「無量寿院」を称する仏教寺院であったとされています。
その寺院が平安時代承和2年に火災に巻き込まれることになり、焼失に至りました。
寺の再興
無量寿院焼失後の承和14年、「慈覚大師」(円仁和尚)が寺を再興したと伝えられております。
大師が太宰府滞在中に当地をご訪問の折、惨状を目の当たりにしたところから、寺は復興へと導かれることになりました。
寺院再興の折、大師が修行を重ねられた唐の仏教寺院「大興善寺」(唐の長安、現在の中国・西安にあります仏教寺院)の名をいただくことになり、以降、大興善寺は比叡山の末寺として歴史を刻むことになります。
中興の祖「慈覚大師」の祠(ほこら)

この祠は、慈覚大師が古来より当地にて敬われていたことをうかがえる存在です。
大師が唐より将来された「水の符」を開眼なさったのは、かつての寺領「天の村雲橋」といわれておりました。そのたもとのお堂跡に建立された祠と思われます。
慈覚大師の御命日には、村人がご供養を勤めており、その遺徳を今に継承する貴重な史跡でもあります。
近年の説
近年の説では、大興善寺は平安時代に「小松寺」と呼ばれていた報告もあります。
山麓という土地柄から、当時は山岳信仰の影響も考えられ、「脊振山系(せふりさんけい)」の修験寺としての役割を担っていたという話もあります。