福岡・佐賀県境の古刹。山の自然が織りなす観光名所。愛称「つつじ寺」
天台宗別格本山 大興善寺

400年前(天領・対馬藩の仏教寺院)

約400年前の日本は、江戸時代初頭。

「大坂の陣」を経て、徳川幕府(江戸幕府)による天下泰平の時代を迎えることになりました。

当時の大興善寺一帯は、対馬府中藩家老・柳川氏が治めており、後に徳川幕府を巻き込む一大事「柳川一件」の影響から、数奇な運命を辿ることになります。

柳川一件と当地

柳川一件に触れておきましょう。

柳川一件とは、対馬府中藩主「宗義成」公(以降、敬称略)に対しての家老「柳川調興」氏(以降、敬称略)による下克上。徳川幕府をも巻き込んだ大騒動を表します。

戦国時代から続いた「下克上文化」に終わりを告げたエピソードとしても知られております。

事の経緯

「豊臣秀吉」公による朝鮮出兵で断絶された日明・日朝関係。朝鮮半島にも近い対馬を本拠に持つ「対馬府中藩」(以降、対馬藩)は、その国交回復に務めておりました。この実務を担当していたといわれるのが重臣の柳川氏。柳川調信・智永・調興と三代にわたり宗家を支えるなど、持ちつ持たれつの関係であったようです。

それが時とともに、崩れるに至りました。

西暦1633年(寛永10年)には、対馬藩家老・柳川調興が宗家によるとされる(国交回復交渉における)国書偽造・改ざんを告発することになります。

明との国交回復において対等関係を築きたい幕府としましては、偽造・改ざんは許されざる行為でした。

柳川氏は代々、幕府側とも関係が深く、調興は江戸で生まれ徳川家臣に近い厚遇を受けておりました。将軍家とも関わりがあり幕府側の支持を期待できることから、内部告発へと踏み切り、旗本への昇格も狙っていた模様です。

西暦1635年(寛永12年)には、江戸城にて将軍(徳川家光公)・徳川御三家・幕閣・大名・旗本列席の中、この件に関する宗義成と柳川調興の口頭弁論が開かれることになりました。

調興側有利の下馬評だったそうですが、一転して宗義成は無罪。柳川調興は弘前藩に流罪と相成りました。

この決定には、義成を支持した仙台藩主「伊達政宗」公の意向が働いたともいわれております(対馬の宗家には、朝鮮出兵した際に大変お世話になり、そのご恩に報いるため動かれたともいわれております)。

当地は御料所(天領)へ

調興が弘前藩に流され、柳川氏が二代にわたり治めた土地すべてが対馬藩へ。とはなりませんでした。

江戸時代初頭、柳川氏は対馬藩の飛び地でもあった「田代領」(現在の佐賀県三養基郡基山町・鳥栖市の一部)に2000石(一説には1562石。大興善寺一帯を含む)を有していました。

そのすべては幕府側から譲り受けたもの。と柳川氏は主張しており、宗家とは見解が異なっていた模様です。

この領地(知行地)問題は、お家騒動に発展し、柳川一件につながった一因とも考えられております。

こうした経緯もあり、田代領の一部(大興善寺一帯)は「御料所」(幕領)となりました。

以降、大興善寺は80年近く御料所(いわゆる天領)の寺院として過ごすことになります。

天領の名残

大興善寺に安置されている徳川家康像

幕末まで寺の境内には、「東照大権現」(徳川家康公)をお祀りする「小松宮」が存在していました。

家康公の命日である4月17日には、この場で祭礼が行われ、お代官様ご一行にも度々参列いただいたとのことです。

大興善寺は徳川直轄地に属して以降、幕末に至るまで家康公をお祀りする寺院(寺社)としても評判を得ていたのかもしれません。

寺に現存する徳川家康像(上写真)は、その当時の名残とも考えられます。

対馬藩に返還

江戸時代に建てられた大興善寺本堂

現在の大興善寺本堂(上写真)は、江戸時代初期に由緒をもちます。

対馬藩主・宗義成の命により、西暦1624年(元和10年)に本堂が再興となりました。

再建当時は、家老・柳川調興と対立しつつあった時期とも考えられ、藩主のご意向を推し量るのは難儀です。何らかの意味があるならば、農地の重要性がその理由ではないでしょうか。対馬藩にとりまして飛び地の田代領は、石高を支えるかけがえのない米処。その田畑の多くを潤していた河川が「秋光川」です。

この川の水源に近い祈祷寺院が大興善寺であり、豊作を願っての寄進であったのかもしれません。

柳川一件を経て、秋光川上流を含む寺一帯や農地は、徳川の御料所(天領)へ。義成存命のうちに、藩領に戻ることはありませんでした。対馬藩のもとに返還されるのは、西暦1711年(正徳元年)となります。

対馬藩にとりまして、田代領の石高への期待は高まるばかりといった時代背景もあり、領地の返還は願ったり叶ったりではなかったでしょうか。

以降、大興善寺は対馬藩の寺院に属し、江戸幕末までその関係が続くことになります。

江戸時代の寺のかたち

檀家さんがお寺を支える「檀家制度」。これは江戸時代の「寺請制度」から始まったともいわれております。

寺請制度により、民衆は何処かの寺院に属する(檀家になる)ことになり、戸籍管理も寺が担うようになりました。

この時代の仏教寺院は、現在でいうところの「役所・役場」のような存在でもあったようです。

寺請制度は、幕府直轄地にて先行導入されたとのことですので、大興善寺では江戸時代の早い段階よりこの制度に則った寺院運営がなされていたのかもしれません。

寺周辺には「小松村」と呼ばれる70戸から80戸ほどの集落がありましたから、当時は「小松村のお役所」的立場であったとも考えれます。

祈祷寺院としての名声

いっぽうで異なる見方もあります。

大興善寺は一般的な仏教寺院と比べますと、現在に至るまで檀家が少数の寺院。

過去においても檀家に支えられるお寺とはいえませんでした(観光寺院や祈祷寺院によく見られる傾向です)。

江戸時代に入り「御開帳」が始まるなど、大興善寺は参拝や祈願によって支え・支えられる「祈願寺」として、その立場に注力し、評判を高めていくことになったとも考えられます。

江戸時代後期には、当時の名僧「豪潮律師」が「八万四千塔」(上写真)の発願・建立を大興善寺より始められました。以降、師の偉業として、全国各地に幾千もの塔が建立されることになります。

こうしたエピソードが歴史に刻まれるとともに、大興善寺は祈祷寺院としての名声を博していったものと推察されます。